父の葬儀の日程を決める際、葬儀社の担当者から「火葬場の予約が取れるのは、一番早くて来週の火曜日になります」と告げられました。その日は、暦の上で「赤口」でした。母は少し顔を曇らせましたが、私は「日柄なんて、気にする必要ないよ」と、きっぱりと言いました。なぜなら、生前の父が、そうした迷信や占いを一切信じない、非常に合理的な人だったからです。父は、「人間の運命は、暦が決めるんじゃない。自分自身の行動が決めるんだ」と、常々口にしていました。そんな父の葬儀を、根拠のない暦注に振り回されて、さらに先延ばしにするなんて、それこそ父に対して失礼だと、私は思ったのです。もちろん、親戚の中には、日柄を気にする年配者もいました。案の定、叔母の一人から「赤口なんて、縁起の悪い日にしなくても」という電話がかかってきました。私は、叔母に対して、父が生前どのような考え方の人間であったかを丁寧に説明しました。「お父さんならきっと、そんなことより、みんなの都合がつく日に、早く送ってくれって言うと思うんです」。そして、「お寺様にも確認しましたが、仏教では日の吉凶は全く関係ないそうです」と付け加えました。私のその言葉に、叔母も最後には納得してくれました。葬儀当日、私たちは赤口の日に、父の告別式を執り行いました。父の好きだったジャズを流し、趣味だったカメラを飾り、父らしい、温かい雰囲気の中でのお別れができました。もし、あの時、私たちが日柄を気にして、さらに日程を延ばしていたら、遠方から来てくれた親戚に、もっと大きな負担をかけていたかもしれません。そして、父の遺志に背くことになっていたでしょう。六曜を気にするか、しないか。それは、最終的には、その家族の価値観が決めることです。地域の慣習や、親族の気持ちを尊重することも、もちろん大切です。しかし、それ以上に大切なのは、故人がどのような人生を送り、何を大切にしていたかを、残された家族が真剣に考えることではないでしょうか。私たちの場合は、「六曜を気にしない」という選択こそが、父への最大の敬意の表れだったと、今でも信じています。
六曜を気にしないという選択