父が亡くなったのは、水曜日の夜でした。木曜日に近しい親族が集まり、金曜日に通夜、土曜日に告別式という日程で、話はすぐにまとまるはずでした。しかし、葬儀社の担当者が火葬場の予約状況を確認したところ、返ってきたのは「申し訳ありません、金曜日も土曜日も、午前中の枠は全て埋まっております」という、厳しい現実でした。その週は、週の初めに友引が二日も続いた影響で、火葬場の予約が数日先までパンク状態になっていたのです。担当者の方が必死で調整してくださり、ようやく確保できた火葬の予約は、日曜日の午後でした。逆算すると、告別式は日曜日の午前中、通夜はその前日の土曜日ということになります。そして、その日曜日の暦を確認した母が、不安そうな声で呟きました。「まあ、あの日、大安じゃないの」。その一言で、親戚たちの間に、一瞬、気まずい空気が流れました。縁起の良い大安に、葬儀なんて。祖母などは、「少し待ってでも、日をずらした方がいいんじゃないか」とまで言い出しました。私自身も、知識としては「六曜と仏教は無関係だ」と知ってはいましたが、いざ当事者になると、世間体を気にする気持ちがむくむくと湧き上がってくるのを感じました。そんな重い空気を打ち破ってくれたのは、菩提寺のご住職の言葉でした。電話で事情を説明すると、ご住職は穏やかな声でこうおっしゃいました。「仏教に、日の良し悪しはありません。むしろ、大いに安らかと書く日に、お父様が安らかに旅立たれる。何も問題ありませんよ。大切なのは、日柄ではなく、皆で心を込めて送ってあげることです」。その言葉は、私たちの心の迷いを、すっと晴らしてくれました。私たちは、予定通り、日曜日の大安に父の告別式を執り行いました。当日は、雲一つない、穏やかな晴天でした。参列してくれた父の友人たちも、誰一人として、日柄のことを口にする人はいませんでした。この経験を通じて、私は、自分がいかに世間の「常識」という名の迷信に縛られていたかを痛感しました。大切なのは、暦の上の文字ではなく、故人を想う心。そして、現実的な状況の中で、最善の選択をすること。父が最後に、身をもって教えてくれた、大切な教えだったように思います。
父の葬儀が大安になった日のこと