父が息を引き取ったのは、大型連休の最終日でした。連休中、実家に帰省していた私は、幸運にもその最期を看取ることができました。しかし、その安堵も束の間、私たちは「火葬場が予約できない」という、厳しい現実に直面することになったのです。葬儀社の担当者の方が、いくつもの火葬場に電話をかけてくれましたが、返ってくる答えは、どこも「連休明けで予約が殺到しており、一番早くて一週間後になります」というものでした。一週間後。その言葉の重みに、私たちは愕然としました。父を、そんなに長く、このままの状態にしておかなければならないのか。遠方から駆けつけようとしていた親戚たちに、何と説明すれば良いのか。私たちの焦りと不安は、ピークに達していました。結局、葬儀の日程は、父が亡くなってから八日後に、ようやく決まりました。その長い待機期間、父は葬儀社の安置施設で静かに眠っていました。私たちは、毎日その施設に通い、ドライアイスを交換してもらいながら、父の顔を見つめ続けました。最初の数日は、父とまだ一緒にいられるという気持ちもありましたが、日が経つにつれ、その思いは、日に日に変化していく父の姿を見ることへの辛さと、いつになったらきちんと送ってあげられるのかという、もどかしさに変わっていきました。そして、安置費用やドライアイス代といった追加費用が、日ごとに加算されていくという、経済的なプレッシャーも、重くのしかかってきました。ようやく迎えた葬儀の日。私たちは、心身ともに疲れ果てていました。もっと早く、父を安らかな場所へ送ってあげたかった。その無念の気持ちが、悲しみと共に胸を締め付けました。この経験を通じて、私は、葬儀の日程が、決して私たちの思い通りにはならないという現実を、痛いほど思い知らされました。特に、多くの人が休みを取る連休や、友引が続く週は、火葬場の予約が極端に困難になる。そのことを、もっと早く知っておくべきでした。もし、父が「生前予約」をしていたなら。もし、私たちがもっと早く、複数の葬儀社に相談し、選択肢を広げていたなら。結果は少し、違っていたのかもしれません。この後悔を、これから同じような状況に直面するかもしれない誰かのための、教訓として伝えたい。心からそう思います。